10月30日は何があった日?
1598年(慶長3年10月1日)の今日、慶長の役において朝鮮・泗川城を守る明・朝鮮軍を島津義弘が率いる島津軍が撃破しました。 この戦争における島津義弘ら島津軍の戦果が生んだ「薩摩隼人は強い」という認識は、江戸時代末期の武士にまで引き継がれたようです。
1598年(慶長3年10月1日)の今日、慶長の役において朝鮮・泗川城を守る明・朝鮮軍を島津義弘が率いる島津軍が撃破しました。 この戦争における島津義弘ら島津軍の戦果が生んだ「薩摩隼人は強い」という認識は、江戸時代末期の武士にまで引き継がれたようです。
1898年(光緒24年8月6日) の今日、清帝国の支配者である西太后が改革を進めていた官僚を粛清。改革を支持していた甥の光緒帝を幽閉しました。 西太后は72歳で死ぬまで日本を含めた列強国に侵食され滅びゆく清帝国を支配し続けました。
626年の今日、李世民(太宗)が唐の第2代皇帝に即位しました。本来2代皇帝になる筈だった皇太子の兄と弟を殺した上で初代皇帝である父に帝位を自分に譲らせた太宗は文武の徳を備え中国史上有数の名君の一人と称えられています。 ◇口冊司作品はこちら>>...
220年の今日、中華三国時代の一つである魏の大将軍・夏侯惇が死去しました。夏侯惇は曹操が挙兵した時から常に副将として侍った側近。三国志演義では弓矢で射られた左目を自ら食べた様子(画像)が描かれています。曹操が病で死去した4ヶ月後、後を追うように病死しました。...
1989年の今日、前日に起きた天安門事件の直後、天安門広場へと向かう長安大街の路上で一人の男性が戦車の行く手を遮る姿が撮影されました。全世界に配信されたことで男性は『無名の反逆者』と呼ばれ、民主化運動の象徴に。 ◇口冊司作品はこちら>>...
1928年(昭和3年)の今日、満州国の樹立を画策した関東軍が奉天派の総帥である張作霖を爆殺しました。 張作霖は日露戦争時、ロシア側のスパイとして活動し日本軍に捕縛されましたが陸軍参謀次長だった児玉源太郎の計らいで処刑を免れました。以後は日本のスパイとして活動。
221年の今日、劉備が皇帝に即位し『蜀漢』が成立しました。 『蜀漢』は後世の呼び名で正式な王朝名は『漢』。魏の曹丕が後漢王朝を滅ぼして魏の皇帝に即位したことで劉備は自分が漢王朝の正統な後継者であると宣言しました。画像の黄色エリアが蜀、緑が魏、赤が呉。
1609年(慶長14年4月5日) の今日、琉球王国第二尚氏王統の第7代国王である尚寧王が薩摩藩に降伏しました。琉球は薩摩藩の属国になりますが、それまで通り中国の明帝国にも属しました。尚寧王は江戸に連行され二代将軍の徳川秀忠に謁見した後、琉球に戻されました。...
200年の今日、 後漢王朝末期、長江下流域の江東六郡を制覇した孫策(字・伯符)が死去しました。短期間で広大な地域を侵略したことで恨みを買い刺客に襲撃された傷が元で26歳の若さで死去。一説では、袁紹と戦う曹操の隙を突き曹操の本拠地へと進軍する途中だったとか。
1796年の今日、清で農民による弥勒信仰結社『白蓮教徒』が叛乱を起こしました。白蓮教徒の乱。皇帝・乾隆帝(画像)の指揮の下、8年もの間続いた乱はようやく鎮圧されましたが、鎮圧の過程で清の源流である満州軍の軍事力の弱さが露呈。さらに鎮圧の費用で国庫は空に。
1925年の今日、辛亥革命の指導者である孫文が療養先の北京で死去しました。中国最初の共和制国家である中華民国の創始者として「国父」と称えられた孫文。中国では「孫文」よりも日本名の「中山樵」から「孫中山」の通称が一般的だとか。遺言は「革命未だ成らず」でした。
199年(建安3年12月24日) の今日、下邳城を拠点とする呂布軍とこれを攻める曹操軍の戦いが集結。総大将の呂布(画像)と軍師の陳宮、将軍の高順が処刑され、もう一人の将軍・張遼は曹操に仕えました。この戦争で考案されたのが川の流れを変えて城を水没させる「水攻め」です。
1911年の今日、 外蒙古として清朝の属州だったモンゴルが清からの独立を宣言しました。 同日、大モンゴル国の皇帝に即位したボグド・ハーンはモンゴル最高の活仏『ジェプツンダンバ・ホトクト』ですが、モンゴル出身者ではなくチベット出身者。
755年(天宝14年11月9日)の今日、唐帝国の節度使だった安禄山(画像)が帝国の宰相である楊国忠の打倒と政治体制の粛正を訴えて挙兵しました。安史の乱。 安禄山は燕を建国し皇帝に即位しましたが2年後、息子に殺害されました。安史の乱は安禄山の死後も続きます。
1911年の今日、清の湖北省武昌(現・武漢市武昌区)で兵士たちが反乱を起こしました。後に『武昌起義』と呼ばれるこの事件は『辛亥革命』へと発展していきます。革命軍を指揮した黄興(画像)は孫文とともに「民国革命の双璧」と称された革命家です。
紀元前202年の今日、「西楚の覇王」と呼ばれた項羽を倒し自害させた漢王・劉邦(画像)が皇帝に即位しました。漢王朝の支配勢力は、北は外蒙古、南はベトナム、東は朝鮮、西は敦煌まで及び、漢の重臣の王莽による帝位簒奪をはさんで4世紀続きました。
1662年(永暦15年)の今日、台湾の安平古堡を陥落させた鄭成功が鄭氏による台湾統治を開始しました。母親は日本人で幼い頃は平戸で過ごした成功は明の軍人として中国を統一しようとする清に対して抵抗運動を続けた後、台湾に亡命し鄭氏政権を樹立しました。
754年(天平勝宝5年)の今日、中国揚州にある大明寺の住職だった鑑真が仏舎利を携え日本に上陸しました。鑑真は日本渡航を五回失敗しましたが、そのうちの二回が暴風により、他三回は渡航を嫌った弟子たちによる阻止でした。鑑真は来日後、日本にて律宗を開きます。
316年の今日、漢(前趙)の侵攻を受け西晋が滅亡しました。「三国志」を終焉させた西晋は司馬炎(画像)によって建国され、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一しましたが治世は51年間という短い期間で終わりました。西晋の滅亡後、中国は「東晋十六国」へと。
1227年の今日、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンが死去しました。陣中で崩御したチンギス・カンは死の床でも征服事業についての指示をしていたそうです。モンゴル帝国は当時の世界人口の半数以上を統治する人類史上最大規模の世界帝国でした。