12月11日は何があった日?
1087年(寛治元年11月14日)の今日、陸奥守の源義家と藤原清衡の連合軍により逃亡していた清原家衡が殺されました。 家衡の死で『後三年の役』が終結。それまで東北地方を実効支配していた清原氏は滅亡し、藤原氏の黄金時代が始まりました。
1087年(寛治元年11月14日)の今日、陸奥守の源義家と藤原清衡の連合軍により逃亡していた清原家衡が殺されました。 家衡の死で『後三年の役』が終結。それまで東北地方を実効支配していた清原氏は滅亡し、藤原氏の黄金時代が始まりました。
1028年(長元元年6月5日) の今日、房総三カ国(上総、下総、安房)に広大な所領を持っていた平忠常が朝廷に対して反乱を起こしました。平安時代の関東地方で平将門の乱以来の大規模な反乱。朝廷は3年にわたって鎮圧できず、源頼信(画像)が軍を率いて鎮圧しました。...
1235年(文暦2年5月27日) の今日、藤原定家が古今の和歌百首を書写しました。この百首が現在の『百人一首』の原型とされています。「美の使徒」、「美の鬼」、「歌聖」、「日本最初の近代詩人」など多くの呼称を持つ定家。日本の代表的な歌道家として永く仰がれてきました。...
940年(天慶3年2月14日)の今日、朝廷に対して反乱を起こした平将門の関東軍と平貞盛と藤原秀郷が率いる朝廷軍が激突。自ら先頭に立って戦った将門でしたが、額に流れ矢が当たり討死しました。反乱は失敗したものの、日本の律令国家の衰退と武士のおこりを象徴した出来事に。
1184年(元暦元年2月7日) の今日、源義経が率いる源氏軍70騎が断崖絶壁から平氏の一ノ谷陣営へと奇襲をかけ平氏軍に圧勝しました。鵯越の奇襲。当時の平氏軍は後白河法皇の和平勧告で源氏軍と休戦状態にあるという認識だった為に警戒を緩めていた、という説もあるようです。
1172年(承安元年12月14日)の今日、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の皇后となるべく入内しました。時の権力者を父に持ち、高倉天皇との間に生まれた皇子は後の安徳天皇となり、徳子は国母として絶大な権力を握ることに。徳子は『壇ノ浦の戦い』でも生き残りました。
993年(正暦4年6月26日)の今日、90年前に歿した菅原道真に対して朝廷が左大臣と正一位を追贈しました。道真の死後、清涼殿が落雷を受けて朝廷の要人の多くが死傷。当時の天皇も間もなく崩御。道真の怨霊が原因と考えた朝廷は菅原道真の神格化を始めました。
835年(承和2年3月21日) の今日、日本真言宗の開祖である空海が入定しました。享年62歳。『入定』とは本来、人が禅定に入ることを意味しますが、高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥之院の霊廟において今も空海が禅定を続けていることを意味しています。
940年(天慶3年)の今日、関東を征服した平将門と朝廷から追討のために派遣された平貞盛と藤原秀郷の軍勢が激突。流れ矢が額に当たり将門は討ち死しました。関東諸国の国司を任命し自ら『新皇』を称した将門ですが、関東に新たな朝廷を築こうとしたかは未だ不明です。
1167年(仁安2年)の今日、武士として初めて平清盛が太政大臣に就任しました。清盛は日宋貿易により政権の財政基盤を作り、宋銭を流通させて通貨経済の基礎を築き、公共事業も推進して日本初の武家政権を樹立しました。
990年(正暦元年)の今日、関白の藤原道隆の娘である定子が内裏に入りました。当時、三后(皇后・皇太后・太皇太后)はすでに別の女性で埋められていましたが、娘に天皇の正妻として子を産ませたかった道隆は「中宮職」を新設することで強引に定子を天皇の皇后にしました。
1160年(平治元年)の今日、「平治の乱」が終結しました。後白河上皇の側近で権力者の藤原信頼が好敵手である信西を排除する為、源義朝と組んで始めた戦争。結果、信西の討伐は成功しますが親政を望む二条天皇と組んだ平清盛に攻められ信頼も斬首。ここからは平家の時代。
1020年(寛仁3年)の今日、藤原頼通が関白に就任しました。父・道長の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇、後冷泉天皇の下50年もの間、関白を務め藤原氏の全盛時代を築きました。頼道が築いた『平等院鳳凰堂』はその栄華の象徴です。
794年(延暦13年)の今日、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都しました。中国の長安城を模した王城都市は平清盛により福原へ遷都した半年間を除いて約一千百年もの長期にわたり日本の首都であり続けました。戦争や火事により何度も消失ながらその面影は今も残っています。
970年(天禄元年)の今日、祇園祭が初めて官祭として実施され以降毎年行われるようになりました。祭名の由来は行列で祀られる牛頭天王を祭神とする八坂神社が「祇園社」と呼ばれていたことから。起源は869年の御霊会とされ、2019年には1150周年が祝われました。
1173年(承安3年)の今日、京都・神護寺の再興を後白河法皇に強訴した僧・文覚が捕縛されました。伊豆へ流刑になった文覚は同じく流刑になっていた源頼朝と知り合い、『愚管抄』には二人が「四年間朝夕慣れ親しんだ仲」と記されています。
800年(延暦19年)の今日、富士山が噴火しました。延暦噴火。『日本後紀』に記された当時の状況は「富士山が自ら燃え、夜も火の光が照らし雷灰が落ち、山下の川水は紅色になった」。この後、富士山が噴火をしたのは864年と1707年の二回。富士山は今も活火山です。
940年(天慶3年)の今日、反乱を起こし「新皇」を自称した平将門が討ち死にしました。 軍の先頭に立ち奮戦する将門の額に流れ矢が当たり落命。平将門の乱と同時に瀬戸内海では藤原純友の乱が発生。二つの乱の鎮圧にあたった平氏と源氏はその後、出世していきます。 ◇口冊司作品はこちら>>
1184年(元暦元年)の今日、福原にて源義経ら70騎が一の谷口から平氏軍を急襲。圧勝しました。急襲の前日、陣の周囲に強固な防御陣を築いていた平氏軍に後白河法皇の使者が訪れました。「源平は即時休戦し和平を進めよ」と勧告された平氏はこれを信じて警戒を緩めたそうな。
1167年(仁安2年) の今日、平清盛が武士として初めて太政大臣に就任しました。清盛はわずか3ヶ月で太政大臣を辞任したうえ表向きは政界を引退。その理由は平安京からの遷都先として考えていた福原を開拓するためだったとか。